シャネル、エルメスの二つに比べ、商品の女性特化がもっとも遅かったのがヴィトンだが、一九〇〇年代にはすでに今日のソフトバッグの先駆となるスティーマー・バッグを開発している。この売れ行きに着目して、五〇年代以降、次々とソフトバッグの開発に力を注いでゆく。『ヴェニスに死す』の主人公がポーターに大きなハードトランクを運ばせた情景は次第にセピアの色に染まり、あのモノグラム模様のシティバッグがルイ・ヴィトンの主力商品になってゆくプロセスは、女性たちがブランド消費者になってゆくプロセスにそのまま重なっている。こうしてみると「贅沢の女性化」の歴史はまだ百年も経ていない。永遠の真実であるかに思われる「女とブランド」の蜜月は意外に短いのである。それにしても、この蜜月は、いったいいつまで続くのだろうか。ブランド消費の主体が男性に代わるといわないまでも、「ブランドが女のためにある」日々に、いったいピリオドが打たれる日が来るのだろうか。消費の文化的遺伝子はジェンダーの壁を越えないのか?少し別の面から問題を設定しなおしてみよう。女性が家庭の中に閉じこめられて消費を担い、生産は男性が担うという性役割分業は家事の外部化と共になし崩し的に解体し、今や女性は生産の場にも積極的に姿を見せている。
宝石だけは、小さくてもいいから是非本物を手にしてほしいものです。イミテーションには本物の輝きがありません。ダイヤモンドもイミテーションをつけていたら、本物の輝きを知らない、にせものの輝きの女になってしまいます。にせものは必ず曇りますが、本物のダイヤの輝きは永遠です。ですから小さくてもいいから、本物のダイヤを持ってほしいと思うのです。ただ、例外もあります。本物のダイヤを持っている人が、TPOでイミテーションのダイヤをつける場合です。故ダイアナ妃も、大きなイミテーションのジュエリーを楽しんでいらした一人です。本物の輝きを知りつくした人が遊び心でイミテーションをつけるのは、逆におしゃれなことです。また欧米あたりの上流社会では、海外旅行のときなどに紛失の恐れから、本物のコピーを作っておき、そちらを持ち出すのが常識とされています。でも、これはあくまでも本物を持っていての話です。ここが大きなキーポイントなのです。コピー商品で満足できる女に、絶対なってはいけません。それを持つことによって、いつの間にかあなたの心に貧しいイミテーションの女が住みついてしまうのです。
アウトドアの装いがいちばん上手なのは、いうまでもなくアメリカ人である。彼らは、その場に適した衣類をごくごく自然に身につける。そのナチュラル感と、アウターとインナーの使い分け、つまり脱いだり着たりが巧みなのだ。脱いだり着たりが巧みとは、季節につきあうフットワークのようなもので、そのフットワークの身軽さは、広い土地に住むアメリカ人が産んだ知恵である。彼らのウェアに対する歴史観がそうさせるのだ。決して高価なモノを着ているわけではない。そこらのスーパーに山積みになっているようなダウンジャケットの下にTシャツの類である。日本人であれば、ダウンとTシャツの間に何を挟もうかと考える。アメリカ人は何も考えない。それでも格好がいい。彼らが服と服の組み合わせを熟知しているためだ。ある枠組の中でお洒落を楽しむ姿勢だ。具体的にいえば、スポーツウェアに、ミリタリーウェアをもち込まない。リゾートウェアにワーキングカジュアルをもち込まない。私がカジュアルフライデイのウェアを、クラシックなジャケット周辺に限った理由もそこにある。スポーティカジュアルに属するポロシャツをオフィスで身につけること自体おかしいのだ。